はじめに:不注意ではありません。本当に見えていないのです
病態別にお話しする連載の第7回目は、 頭頂葉(とうちょうよう)のダメージで起こりやすい、 半側空間無視(はんそくくうかんむし)について取り上げます。
この障害には、非常に恐ろしい落とし穴があります。
それは、手足の麻痺がほとんどなく、 言葉も普通に話せるケースが多いことです。
はたから見れば、すっかり元通りになったように見えます。
しかし、なぜか歩くと左側の壁や家具に何度もぶつかる。
食事の時、お皿の左半分だけおかずが綺麗に残る。
左側から家族が優しく声をかけても、全く気づいてくれない。
こうした姿を毎日見ていると、ご家族はつい、 もっと注意して周りを見てよ、と怒りがちです。
何度も同じ失敗を繰り返す姿に、 わざとやっているのではないかと悲しくなることもあるでしょう。
しかし、ご本人は決して怠けているわけではありません。
ご本人の世界からは、 本当に左側の空間がすっぽりと消えているのです。
- 頭頂葉の役割と、空間が消えるメカニズム
左半側空間無視は、主に右側の頭頂葉という場所が ダメージを受けることで起こります。
言葉を操る中枢は概ね左脳にあるため、 これまで通り、ご家族と楽しくおしゃべりはできます。
運動神経も無事なら、スタスタと歩くこともできます。
しかし、頭頂葉という場所は、 自分の身体と周りの空間の、立体的なマップを作る場所です。
ここが壊れると、目のカメラは正常に景色を映しているのに、 脳のモニターの左半分だけが真っ暗になります。
視力が落ちて見えにくいのではなく、 左側という概念自体が、脳から抜け落ちているのです。
だからこそ、左側から近づくものに対して、 避けるどころか、反応することすらできないのです。
- 評価テストの罠と、軽症に見えることの恐怖

症状として、毎回食事の左側半分を残したり、極端に壁にぶつかることが頻発しているのであれば、 それは機能障害としてかなり症状が強い状態です。
そうした方の場合は、通常通り回復期の病院で しっかりと入院リハビリを行ってから、ご自宅へ帰ることになります。
しかし、私たちが最も注意しなければならないのは、 ある程度のことが自分で、できちゃう人たちです。
病院の環境は、整理整頓されていて障害物がありません。
歩ける、話せる、自分でトイレに行ける。 理学療法士などのテストでも、高い点数が出ます。
症状が軽めに見えるこの方々こそが、 実は、一番危険な落とし穴にはまりやすいのです。
- 介護保険すら未申請?社会復帰後に勃発する問題
ご本人も手足が動くため、早く家に帰りたいと希望されることが多く、 回復期の入院期間が短く設定されたり、 急性期の病院から直接ご自宅へ帰ることも少なくありません。
手足が動いて自立しているように見えるため、 病院側からご家族への十分な説明がないまま、 あるいは、公的な介護保険の申請すら勧められないまま、 社会に放り出されるケースが実際に存在します。
しかし、本当の恐怖は家に帰り、 複雑な社会に復帰してから勃発します。
病院とは違う狭い廊下で、左側のドア枠に何度も肩をぶつける。
外を歩けば、左から来る自転車に全く気づかず、ヒヤリとする。駅のホームを歩いていて、左側にそのまま転落しそうになる。
そして最も恐ろしいのが、 ご本人や家族の判断だけで車の運転を再開し、 左側を走る車や人に気づかず、重大な事故につながることです。
誰もこれが脳の障害だと気づけないまま、 命に関わる危険な生活が続くことがあるのです。
- 心当たりのある方は、まず地域の専門家へ相談を

このブログを読んで、 うちの家族もそうかもしれないと心当たりのある方は、 決してご家族だけで抱え込まないでください。
どうしてできないの、と悩み続けるのは辛すぎます。
介護保険の申請をしていない状態で、 家で問題が勃発しているのであれば、 まずお住まいの地域の、地域包括支援センターへ相談するのが良いでしょう。
そこから、経験豊富な理学療法士や作業療法士に繋いでもらうことが、 安全な生活を立て直す第一歩になります。
ベテランの専門職は、病院のテストの点数に加えて暮らし全般を観察し、動作の中にある何かおかしいなという小さな違和感を見逃さず、 ご自宅のどこで危険が起きているのかを具体的に抽出してくれます。
そして、テレビの配置を変えたり、ご家族の立ち位置を工夫したりと、 共に生活の再建を進めてくれるはずです。
- 後天的な気づきが、社会復帰の鍵になる
半側空間無視の改善には、長い時間がかかります。 しかし、どうか絶望しないでください。
この病態は、記憶力や言語機能は正常に保たれている場合、 専門職が丁寧に説明と訓練を重ねることで、 自分は左側が見落としやすい病気なんだという、 病気に対する自覚を後天的に持てるようになります。
見えないなら、理性の力で意識して左を振り向く。
この習慣が身につけば、注意力と自立度は劇的に上がります。 車の運転なども、行政や主治医としっかり相談しながら解決を図り、 安全に社会へ参加していくことは、十分に可能なのです。
おわりに:見えない恐怖を共に乗り越える
半側空間無視は、外からは分かりにくい見えない障害です。
歩けるから大丈夫、ではありません。
左側にぶつかるのは、不注意ではないのです。
あ、今は左が消えちゃってるんだなと察して、 そっと右側から声をかけ、安全な道へナビゲートしてあげてください。
あなたが絶対的な味方でいてくれることが、ご本人の一番の救いになります。
テストの点数には表れない、本当の暮らしの質を高めるために。
家族の温かい理解と、地域のプロのサポートで、 見えない恐怖に怯えるご本人の世界を もう一度、安全で豊かなものへと広げていきましょう。
あなたは決して、一人ではありません。
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