はじめに:大げさではありません。本当に見えなくて、心細いのです

病態別にお話しする連載も、今回で第10回を迎えます。

今回は、頭の後ろ側にある脳の領域、後頭葉(こうとうよう)のダメージについて取り上げます。

リハビリ病院で訓練を重ね、無事に退院の日を迎えることができた。

病院では見えない側を意識する練習をしっかり行い、ご本人も自分は右半分が見えにくいという自覚を持っています。

それなのに、いざ実際の家に帰って生活を始めると、病院ではできていたはずの動作でエラーが増えていきます。

狭い廊下で同じ側の壁や家具に肩をぶつける。

食事の時も、お皿の片側にあるおかずを残す。歩くことを極端に不安がり、すり足で少しずつしか進まない。

そんな怯え、時に心細さから涙ぐむ姿を見て、ご家族は深く傷つき、どう接していいか分からなくなることが多くあります。

病院ではあんなに上手に歩いていたのに。そんな行き場のない悲しみを抱えるご家族に、まず最初にお伝えしたいことがあります。

ご本人は決して、大げさに怖がっているわけでも、注意力が足りないわけでもありません。

実際の生活環境は病院よりもはるかに複雑で、脳が見えない状況に適応するには、年単位の長い長い時間が必要なのです。

  • 空間無視や失認との違い。同名半盲とは何か

脳の病気で見えない、気づかないという症状には、実はいくつかの種類があります。

ここを正しく区別することが、ご本人を理解する第一歩です。

以前のブログで、頭頂葉のダメージによる半側空間無視についてお話ししました。

これは、左側という概念そのものが脳から消えるため、本人は見えていないことに気づきにくいという特徴がありました。

また、目は見えているのにそれが何であるか認識できない失認という症状もあります。

それらに対して、頭の後ろ側にある後頭葉は、目から入ってきた情報を映像として映し出すスクリーンのような場所です。

ここがダメージを受けると、視野の右半分、あるいは左半分がすっぽりと欠け落ちます。これを同名半盲(どうめいはんもう)と呼びます。

同名半盲の最大の特徴は、ご本人が自分は半分見えていないとはっきり自覚していることです。

見えないからこそ、そこに見えない障害物があるかもしれないという心細さを常に抱えながら生活することになります。

  • リハビリの成果と、実生活で増えるエラー
【病態別】第10回:後頭葉出血・梗塞 見えない半分と生きる。不安に涙するご本人とご家族へ

回復期のリハビリ病院では、見えない側へ意識的に顔を向ける訓練を繰り返します。

そのため、退院する頃にはある程度の改善傾向が見られ、テスト上は上手に対応できるようになります。

しかし、病院の廊下は広く、整理整頓され、予期せぬ障害物はありません。

一方、実際の家や外の社会は違います。狭いドア枠、見えない側から急に近づく自転車や人。

複雑で予測不可能な実生活の環境では、病院で覚えたはずの首を振って確認するという動作がどうしても追いつかず、エラーが増加します。

さらに、家の中は毎日同じではありません。

一人暮らしや高齢のお二人暮らしであっても、最近は玄関の足元に宅急便の荷物が置かれたり、リビングに一時的に段ボールが置かれたりします。これらは足元にあるため、非常に気づきにくい障害物になります。

また、育ち盛りのお子さんやご家族がいる場合は、ランドセルや学校のカバン、部活動の大きなバッグや道具などが、家のあちこちに置かれます。

つまり、住み慣れたはずの在宅であっても、常にいつもとは違う環境が広がっているのです。

整然と管理された病院とは違い、この日々の小さな変化にその都度対応する能力が求められるからこそ、家で暮らすことは本当に大変なのです。

頭では分かっているのにぶつかって痛い思いをする。

これがご本人の自信を奪い、歩くことへの強い不安に繋がります。

  • 早期退院の現実と、孤立するご家族

後頭葉のダメージ単独の場合、手足の麻痺は比較的軽いケースが多く見られます。

歩行のテストでも良い成績が出るため、入院期間は短く設定され、後はお家の暮らしの中で改善を図りましょうと早期に退院となることが少なくありません。

しかし、この見えない障害の本当の辛さは、複雑な生活に戻って初めてはっきりと姿を現します。

家に帰ってからエラーが頻発し、極度に不安がる姿に直面して、ご家族はどう対応していいか分からず途方に暮れるのです。

周りからは手足が動いて元気そうに見えるため、誰にもその心細さや介護の辛さを分かってもらえず、先の見えない介護の中で孤立状態に陥ります。

  • 家族の性格に合わせた、2つの環境作りと選択
【病態別】第10回:後頭葉出血・梗塞 見えない半分と生きる。不安に涙するご本人とご家族へ

不安で涙ぐむ姿を目の当たりにしても、どうかもっと気をつけてと励ましたり、無理に歩かせたりしないでください。

見えないことへの心細さと実生活への適応は、本人の努力や根性だけで数日で乗り越えられるものではありません。

在宅での生活を再建していくにあたり、ご本人の記憶や理解力が保たれている場合、家の中の環境作りには大きく分けて2つの方向性があります。

一つ目は、危険なものを徹底的に排除し、安全で動きやすい環境に整える方法です。

見えない側の家具をなくし、動線を広く確保します。

短期的にはご本人の不安も減り、ご家族も安心できます。

しかし長期的に見ると、守られた環境に慣れきり、複雑な外の社会へ出たときの対応力が育ちにくいという弱点があります。

二つ目は、あえて元の環境のままにしておき、どこに何があるかを反復して学習し、ご本人自身が対応する能力を身に付けていく方法です。

毎日変化のある家の中で過ごすことは、もちろんエラーも起こります。

しかし、記憶がしっかりしているのなら、その変化を学習し、対応する能力がどんどん身についていきます。

結果的に、その方が早く改善に向かうことも考えられます。

また、変化に対応する訓練を家の中で積んでおくことで、外の社会に出たときの適応力も増し、怖さはあるけれど慎重に前へ進んでいこうという気持ちのエネルギーも育まれます。

前向きに社会復帰を目指すタイプのご家庭なら元の環境で鍛える方法。まずはリスクを避けたいご家庭なら安全に整備する方法。

どちらにも長所と短所があるからこそ、ご家庭の性格を踏まえ、私たち専門家とじっくり相談しながら進めていくことが大切なのです。

おわりに:あなたは、決して一人ではありません

毎日、見えない不安に涙するご本人を支え続けることは、想像を絶するエネルギーが必要です。

ついちゃんと見てよと怒りをぶつけ、後で激しい自己嫌悪に陥る夜もあるでしょう。

でも、どうかご自身を責めないでください。これは病気が引き起こしていることであり、誰のせいでもありません。

絶望の淵にいるときこそ、私たち地域の専門職を頼ってください。

ご本人が不安で足がすくみ涙するときは、私たちがしっかりと盾になります。

ゆっくりと、焦らずに。1年、2年と安全な暮らしを積み上げていく中で、ご本人が理性の力で見えない側へ顔を向ける習慣を完全に自分のものにし、再び安心して笑顔を見せる瞬間が、少しずつ近づいてくるでしょう。

その時の喜びは、何にも代えがたいものです。

新しい家族の形を私たちが全力でサポートしながら、一緒に、温かく見つけていきましょう。

あなたは決して、一人ではありません。

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